豊かな慈しみ、確かな救い   加藤 誠

クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする喜びの時です。同時に、主イエスの生涯が、人間の罪を受け尽くす十字架の生涯であったことを深く覚えずにいられません。私たちは、神の御旨をあらわされた主イエスを拒否し、罵倒し、捨てた。私たちが抱えている救いがたい歪みと醜さ。その闇を照らし出し、神に導くために主イエスは来てくださったのです。

最近、「戦後七十年」を迎える日本を確実に覆い始めている「歪み」をいろいろな場面で感じさせられます。例えば、札幌の北星学園大学で講師を勤める元朝日新聞記者に対する過剰で醜いバッシング。大学の講師は、その思想が右派であろうと左派であろうと、その評価は学問の場で正々堂々と論じられるべきであって、犯罪をおかしたわけでもない人間とその家族に対してこれほどの罵詈雑言を浴びせ、大学にまで脅迫や嫌がらせを繰り返す精神性の未熟さ、幼さとは何かを考えさせられます。当初「大学の自治をおかす暴力に抵抗する」と言っていた大学も、二千件を超える脅迫や嫌がらせの電話・メール、警備と弁護関連費用が多額になるにつれて、「大学と学生を守るためには元記者の雇い止めも考え始めている」とのこと。「戦前」も、このようにして思想や宗教が弾圧されて沈黙を強いられていったのかと暗澹たる気持ちにさせられます。

詩編69編は「悩める僕の嘆願」と呼ばれ、主イエスの十字架の苦しみを表現した「メシアの詩編」とも呼ばれてきた詩編です。なぜ、これだけの苦しみを神の子が味わわなければならなかったのか。その十字架にこそ「豊かな慈しみ」と「確かな救い」(14節)が隠されていたことを聴き取りたいのです。