証言者の資格    加藤 誠

明治大正期のキリスト教で使われていた言葉に、「教役」「服役」という言葉があります。

「教役」の「教」は「キリストの福音の教え」、「役」は「強制的に課せられた働き」。それゆえ「教役者」とは「福音の教えを課せられ追い使われる者」を意味しました。また「服役」は、現在では「犯罪者が刑に服すること」しか思いつきませんが、明治大正時代には「〇〇兄は関西地方に服役中」というと「教役に服して関西伝道中」を意味したそうです。

「賦役」「苦役」という言葉がまだ残っていた時代の表現ですが、明治大正期の信仰の先輩たちが、みずからを「教役者」と呼び、伝道を「服役」と言い表したことの中に、当時のキリスト者たちがどれほど強く「キリストの奴隷」、「キリストの囚人」としての自意識を持っていたかを知らされるのです。それに対して、いまのキリスト者は「奴隷」や「囚人」という言葉の負のイメージを避けようとするゆえに、証言者としての力強さを失ってしまっているのではないか…と考えさせられます。

 

「テモテへの手紙一」の三章に記されている「監督」や「奉仕者」の条件はいずれも厳しいものばかりで、読む者はどこか尻込みしてしまいます。けれども最初期の教会にはまだ一冊にまとめられた『聖書』が存在しなかったために、宣教者や指導者の役割は非常に重大でした。異教社会において福音を「人から人へ」伝えていくために、キリスト者一人ひとりの生き様や生活態度がそのまま「キリスト」を証しする「証言」となったからです。いまのわたしたちは、その厳しい緊張をどれだけ正面で受けとめているでしょうか。