見よ、新しいことを   加藤 誠

「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43・19)。昨年度に引き続き、このイザヤ書のみ言葉が今年度の主題聖句として今日の定期総会に提案されています。イザヤが「見よ」と語る「新しいこと」とはいったいどのようなものなのでしょう。

 

紀元前六世紀、イスラエルの人々は異国の地バビロンでこの神の語りかけを聞きました。バビロニア帝国に祖国を滅ぼされ、異国に強制移住させられて約半世紀。強大なバニロニア帝国の支配は鉄壁であり、自分たちの将来にまったく希望を見いだせずにいたときに、イスラエルの人々はこの言葉を聞くのです。それは人々が聞いたことも考えたこともない、神が「今、創造する」(48・7)出来事であり、「新しい歌」(42・10)をもって賛美されるべきものだとイザヤは言います。つまり、イスラエル自身のそれまでの信仰が「新しく創りかえられる」ことによって初めて見えてくる出来事だということでしょう。

 

このイザヤのみ言葉を今のわたしたち大井教会に重ねて考える時、主なる神が起こされる「新しいこと」は、わたしのこれまでの信仰が「こんなふうになったらいいな」と思い描くような「新しいこと」ではないのでしょう。わたしがこれまで考えたことも思い描いたこともない「新しいこと」であり、わたしの信仰が、あの天地創造の出来事と同じように新しく創造されて、わたしの口に「新しい歌」が与えられていくような出来事だからです。