羊はその声を知っている  加藤 誠

キリスト教入門Q&Qクラスでの一コマ。「ペットの葬りはどうする?」という問いをきっかけに「旧約聖書で神が動物の犠牲を求めるのはどう考えたらいいか?」「神が人間を試して犠牲を求める(例えばアブラハムの息子イサク)のは疑問に思う」等々。一つの問いが次の新しい問いを生んで、少しずつ本質的な問いに深められていきます。神や聖書を「問うこと」は決して不信仰ではありません。むしろ「問い」は信仰を深め、豊かにしてくれるのです。

そもそも聖書は、「この世界にあって創造主なる神を礼拝し、従うとはどう意味があるのか?」という問いを一生懸命考える試行錯誤の中に生まれた、その時点その時点の神理解であり信仰告白です。ですから現代人の私たちには不可解な神理解も描かれていたりしますが、ならば価値が低いかと言うとそうではありません。むしろ、「神の前で人と人とはどう生きるべきか」というテーマを、古代イスラエルの人々が現代の私たちよりもはるかに真剣に考えていたことを示され、心揺さぶられる箇所が多いのです。

 

例えば、エゼキエル書34章。人間社会において立てられた指導者を「牧者(羊飼い)」に見立てて、そのあり方を厳しく批判し、あるべき姿を示していく言葉の一つ一つが、いまの私たちの心の真ん中にも生きて響いてきます。

「お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である」(34・31)。

人間が、その心に創造主であり導き手である神への畏れを失う時、いかに傲慢になり歪んでいくか。「主は羊飼い、わたしは羊」。ご自分の命を捨てても羊一匹一匹を探し出し導いてくださる「良い羊飼い」(ヨハネ10章)の声を聴いて歩む人生がいかに豊かなものか。その証言を今日受けていきましょう。