神を主語にする恵み   加藤 誠

「ヨセフ物語」(創世記37章~50章)は、ヤコブの11番目の息子ヨセフが、兄たちの恨みを買ってエジプトに奴隷として売られ、その数奇な運命をたどる中で逆にイスラエル民族(兄たち)を飢餓の危機から救うという、旧約聖書の中でも最もドラマチックな物語の一つです。

そのクライマックスでヨセフは「自分を殺そうとして売り渡した兄たち」を前に自分の身を明かし、声をあげて泣く場面があります(創世記45・1以下)。その泣き声はファラオの宮廷にまで届くほどで、ヨセフは兄たちにこう語りかけるのです。「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合う必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです」と。ごく短い語りの中でヨセフは四回も「神が〇〇してくださいました」と語っています。彼は兄たちの非をいくらでも責めることができたし、他人の数倍も苦労し努力した自分を語れたはずですが、しかしヨセフは兄たちを責めることなく、「神」を主語にしてその恵みを語ったのでした。

 

「信仰」とは、「わたし」ではなく「神」を主語にして人生を語ることです。「わたしの功績」ではなく、「神の慈しみ」を語ることであり、わたしが「してあげたこと」ではなく、隣人から「受けた恵み」を語ることです。もっともヨセフがその告白に導かれるまでの間に、何度も心揺れた姿が聖書には描かれています。彼も生身の人間なのです。「もう赦してもいいのでは…」という思いと、「そう簡単には赦せない…」という思いと。神はその苦悩と葛藤に伴いながら、最後にはヨセフ自身を兄たちへの恨みと憎しみから解放し、神の恵みを語る者にしてくださったのでした。神は人と人とを「和解」に導く方なのです。