神は聴きたもう   加藤 誠

先月行われた日本バプテスト女性連合の総会講師に立たれた小林洋一先生の講演題が「厚かましく不敬虔な祈り」という興味深いものでした。その講演を直接聞いたわけではありませんが、詳細なレジュメからその内容をうかがい知ることができます。

小林先生の講演は次の問いかけから始まっています。「キリスト教会の祈りは、今日、あまりにも上品となって力を失っていないか」と。そして旧約聖書に出てくるアブラハム、モーセ、ヨナ、ヨブなど、数々の「厚かましく不敬虔な祈り」の実例を示すのです。ただし、その場合の「厚かましさ」には一つの特徴があります。それらは「人間の欲望に基づいた」願い事ではなく、「神の慈しみと正義の実現」を熱く願うことにおける「厚かましさ」である点です。
旧約聖書の中で、神はしばしばご自分を「恵みと憐みに満ち、貧しい者、弱い者、虐げられた者の嘆きと訴えを聞く」と自己紹介していますが、現実の世界はそうはなっていない。「神様、おかしいではないですか!あなたの慈しみと正義をもってこの世界を正しく裁いてください!」と、神の責任と義務の行使を求めて食い下がりしつこく祈り続ける。そのような「厚かましく不敬虔な祈り」を「正しい祈り」として聴きたもう神を旧約聖書は証言しているのです。
この旧約聖書の祈りの伝統を反映しているのが、新約聖書では「うるさいやもめ」(ルカ18章)の話でしょう。今日の第二礼拝では「子ども祝福」の時を持ちますが、私たちおとなの責任として、子どもたちが生きていく世界をどう祈り求めていくべきかを、聖書から聴いていきたいのです。