神は「微力」を通して   加藤 誠

「わたしたちは微力ですが、無力ではないはずです」(広島長崎中高生平和宣言)。

14年前、長崎の高校生たちが「自分たちの手で核兵器廃絶の運動を」と始めた「一万人署名」運動。当初「市内の高校生は一万人くらいだろう」と目標が設定されたそうですが、先輩から後輩へと受け継がれた署名は今では世界に広がり、総計は「百万人」を超えたといいます。韓国やフィリピン、そして東北の被災地の人々との交流を通し学びながら署名運動を続けていく高校生たちの姿に、「無力」と「微力」は違うことをはっきりと示されます。

 

聖書の神は不思議です。人間の目に「小さな者」、「弱々しい群れ」をあえて選んで、神はその働きをあらわされるからです。エジプトの地から導き出されたイスラエルの人々は「どの民よりも数が多かったからではなく、どの民よりも貧弱だった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、ファラオが支配する奴隷の家から救い出された」(申命記7・7~8)のでした。そして、「小さな者」だからこそ担うことのできる働きがあります。「あなたたちもエジプトでは寄留者であった」から、「人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる神」に従って、「あなたも寄留者たちを愛しなさい」と呼びかけられているのです(同10・12以下)。

 

「無力」を言い訳に使うわたしがいます。しかし、どんなに「小さく、貧弱」でも、隣人を覚える祈り、神に向かう祈りがあるならば、その「微力」は決して「無力」に終わることなく、神に必ず用いられることを覚えたいのです。