神の国の「種」 加藤 誠

三月一日、受難節最初の主の日。コロナウィルス感染拡大の不安が日本中を覆う中、教会学校の全クラスが休校となり、礼拝のみが守られた。教会の庭に保護者たちの自転車がなく、幼稚園児や小学生の声がまったく聞こえない教会は大井教会ではない別の教会のようだった。改めて、大井教会の私たちは幼稚園と教会学校を通して地域との関わりをいただいて建てられている群れであることをまざまざと見せられた主の日となった。

多くの人がマスクを着けて緊張しながらの礼拝。参加者は確かに少なかったけれども、会衆賛美はマスクを通してでも礼拝堂いっぱいに響いた。新田恵子姉による証しを通して、この礼拝堂がまだ建っていなかった頃、畳敷の借家に集った大井教会の信仰の先輩たちの姿が否応なしに胸に迫ってくる。礼拝堂に集められた者だけでなく、やむなく家で静かに礼拝をささげることを選び取らざるを得なかった友たちを想いながら、教会の建物の壁を越えて働きたもう十字架の主をそれぞれが感じ考えさせられた主の日となったのではないだろうか。

さて、ガリラヤ湖で嵐に遭遇し、恐怖に取りつかれた弟子たちは「まだ信じないのか」と主イエスに叱られた(マルコ四章)。その直前に主イエスは「神の国の種」のたとえを語られている。この世界で神への信仰を生きることは容易ではない。しかし困難多い世界にあって「神の国の種」は確かに成長し実を結ぶことを主は教えてくださった。この成長し実を結ぶ「神の国の種」とは「みことば」だろう。この「みことば」は、聖書の中だけにとどめられるために語られたのではない。私たち一人ひとりが日々経験する困難の中でこそ成長し実を結ぶために、今日も十字架の主によって語られ続けていることを覚えたい。