神が望まれていること   加藤 誠

人間には尊厳が与えられています。尊厳とは、他の人が取って代われない、その人固有の尊さです。ダイヤモンドは非常に高価なものですが、尊厳があるとは言いません。同じ品質のものと交換できるからです。しかし、人間は交換できません。一人の人の存在は、他の何ものをもってしても埋め合わせることができないのです。

これに対して、人間を「使える」か、「使えない」か、その利用価値で選り分ける思想があります。その一つの究極がナチスの強制収容所でした。囚人たちは入り口で「生かす価値のある人間」と「生かす価値のない人間」に選別され、後者はガス室に送られました。生き残った前者の人々も、少しでも生産性が落ちると「スープをやる価値もない」、「一発の銃弾を費やす値打ちもない」と非難され、ガス室に送られました。戦争は、人間をどこまでも利用価値で選り分け、その尊厳を奪っていく、最も非人間的な行為なのです。

同様の思想は、かつて戦争に向かう日本の国の中にも声高に語られたものであり、今も形を変えて、わたしたちの社会に生き続け、人々の尊厳を奪い、脅かし続けているのではないでしょうか。

 

「信仰とは、望まれていることが実体であり、見えないものが事実であると確信することです」(私訳、ヘブライ人への手紙11・1)。ここで「望まれていること」とは、わたしたちではなく、神が望まれていることを指します。そして、神の御心はすべての人への愛であり、その愛が実体として生きて働き、事実であるという確信に生きること、それが聖書の信仰なのです。