神が共にいる場所    加藤 誠

手足を縛られて大嵐の海に投げ込まれたヨナは死を覚悟しました。

「わたしは思った。あなたの御前から追放されたのだと。…わたしは海の底にまで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」(ヨナ書2・5、7)。

預言者でありながら神の命令に背き逃げた自分に対し、神がどれだけ怒りを燃やしているか。荒れ狂う海に、ヨナは神の激しい憤りを感じ取り、永久に神の前から追放される裁きを覚悟するのです。

しかし、海の底に沈んでいくヨナを、巨大な魚が飲み込みます。通常、魚の腹に飲み込まれることは絶望と死を意味しますが、ヨナにとって魚の腹の中が、主なる神に祈りをささげ、賛美する場所になるのです。ヨナは、真っ暗な魚の腹の中でささげる祈りが神殿に達し、「神はこの祈りを確かに聴いてくださっている!」という確信を与えられます。

「しかし、我が神、主よ。あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった。…わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した」(同2・7、8)。

人と神とは、どこで出会うのでしょうか。多くの場合、私たちは、神を「成功、勝利、歓喜」の場面に限定してしまう傾向がないでしょうか。喜びにわく場面に「神が共におられる!」と考える一方で、「失敗、敗北、絶望」の場面には「神は共におられない!」と見なしてしまう。

しかし、聖書が証しする神は違います。私たちが自分の弱さ、愚かさ、卑怯さに直面し、絶望と死を覚える場所にこそ神は共にいまし、弱さの中に崩れた者を新しい命に立ち上がらせたもう。神は生きて働かれる方なのです。