祈りは貧しさから生まれる   加藤 誠

エルサレムに誕生したばかりの教会は、この世的な力を何ら持ち合わせていませんでした。裕福な人もいたようですが、多くはさまざまな貧しさを抱えた人たちでした。自分の力ではいかんともしがたい、生活上の課題、家族の課題、健康の課題を抱えていた人たちでした。しかし、祈りは貧しさから生まれます。圧倒的な権力をもった人々の脅迫を前にしても、彼らは神に祈ることを知っていました。貧しさから祈りが生まれ、聖霊(神の思い)が吹き込まれるとき、神が与えたもう大胆と自由を体験していったのです。

「信者の中には、貧しい人がいなかった」(使徒4・34)。祈ったら、お金が降ってきたということではないでしょう。所有欲を捨てきって、みんな聖人君主になったということでもないでしょう。ただ、神の愛の促しを受けて、お互いに手を開き、献げ合ううれしさを一つ一つ体験していったのではないでしょうか。それに比べて、今のわたしたちはあまりに豊かになりすぎて、祈ることを忘れ、手を開くことになんと臆病になっているのか…と考えさせられます。

 

先週6日、新礼拝堂建築委員会がいよいよ始動しました。大井教会のこれまでの建築の歩みを振り返り、62年前に献堂された現礼拝堂の建築には、アメリカ南部バプテストの兄弟姉妹たちの多くの祈りと献金が届けられたことを改めて確認しました。新礼拝堂建築は自分たちの祈りと献金で取り組むことになりますが、眼前にそびえる高い山を前に「いったいどうやって?」と戸惑いを覚えているわたしたちがいます。「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しい」(詩編127・1)。神ご自身に働いていただけるほど、わたしたちが貧しくされ、祈りを知る者とされますように。