破格のゆるし   加藤 誠

「主の祈り」の後半は「パン」「ゆるし」「誘惑」の三つが祈られています。「パン」「ゆるし」「誘惑」を巡る問題を抱えて毎日四苦八苦しているわたしたちの関係が、神の大きな慈しみのもとで新しく創り変えられることを祈っているのが、「主の祈り」なのです。

「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。この第五の祈りは難しい祈りです。もし「罪をゆるしたまえ」という願いだけなら言いやすいのかもしれませんが、「我らがゆるすごとく」という「条件」が付されているために、わたしたちの口はたちまち重くなってしまいます。わたしたちにとって「ゆるすこと」は大変難しい闘いだからです。

なぜ「我らがゆるすごとく」という言葉がわざわざ付いているのでしょう。

 

マタイ十八章に「一万タラントンの負債を王に帳消しにしてもらった家来」が出てきます。一万タラントンとは約六千億円という途方もない金額ですが、あろうことか、この家来は自分に百デナリオン(約百万円)の借金のある人をゆるすことができず、王から「わたしがお前を憐れんだように、お前も仲間を憐れむべきではなかったか」と厳しく叱られて牢屋に入れられてしまいます。

この家来は、わたしに注がれている神の「破格のゆるし」の大きさに気づけない鈍感なわたしの姿です。例えば、わたしは親の立場になって初めて、自分が子ども時代に親から受けた愛とゆるしを実感しました。つまり、わたしが誰かを「ゆるす」葛藤を経験して初めて、わたしは自分に注がれている神の「破格のゆるし」の一端を知るのです。逆に言えば、わたしが「誰かをゆるす闘い」と向かい合わずして、神の赦しの大きさを知ることは決してないのです。