注がれた愛は心と体にしみこんで   加藤 誠

「よくよく考えてみなさい。いったいどれほどの愛を父がわたしたちに注いで、わたしたちを神の子と呼ばれるようにしてくださったか。そして現にわたしたちは神の子なのです。」(第一ヨハネ3・1 私訳)

「わたしたちが愛を知ったのは、あの方(イエス)がわたしたちのために自分のいのちを捨ててくださったことによるのです。」(同3・16 私訳)

 

子どもが親から注がれている愛の大きさに気づくのは、多くの場合、何年も何年もあとのことです。しかも気づくのは大きな愛のごく一部であって、気づかれることなく無駄に注がれたように見える愛の方が多いのです。親は子どもがその愛に気づくかどうかに関係なく愛を注ぐのであり、最初から感謝の見返りを求めるのは愛とは言いません。そして、無駄に注がれたように見える愛も、たとえ気づかれなくても子どもの心と体にしみこんでいるものです。

 

主イエスの弟子たちが自分たちに注がれた愛の大きさに気づいたのは、主イエスが十字架で処刑された後のことでした。すべてが手遅れ、あとのまつり。十字架において彼らのダメさ加減は露呈し、彼らが主イエスから教わったすべてが無意味と化したのでした。けれども復活の主イエスから聖霊の息吹が弟子たちに注がれた時、彼らは変えられます。主イエスと行動を共にした約三年の間に、彼らの心と体には主イエスの愛がしっかりとしみこんでいたのですが、その主イエスの愛の大きさに彼らが気づいた時、彼らは神と共に生きる使命に立てられていくのです。「子ども祝福式」の今日、わたしたちがいったいどれほどの愛を神から注がれているのかを、聖書から聴いていきましょう。