朽ちない種、生きた言葉   加藤 誠

新しい礼拝堂について、予算的にもスペース的にも、セキュリティ的にも、実現はなかなか難しいかも…と思いつつ、次のようなことを夢みています。

一つは、少しでもお互いに顔を見合わせながら礼拝できる礼拝堂でありたいということ。縦長の長方形で、学校の講堂のように椅子が並べられ、後ろからは前の人の頭しか見えない空間よりも、できるだけ正方形に近い空間に、集った者たちが半円形に近い形で座り、お互いの存在と表情を感じながら礼拝できる礼拝堂でありたいということ。それは福音書の主イエスの周りに集まった人々の姿も「きっとそうだったのだろうな」と想像するからです。

もう一つは、二十四時間、いつでも誰でも祈りに来られる礼拝堂であれたなら…ということ。ある女子大生の体験を聞いたのですが、彼女が家族や自身のことで深く痛み悩み、部屋に独りでいるのが辛くて夜の街をさまよい歩いた時のこと。あるお寺の境内に入ろうとしたら門が固く閉ざされ入れなかった。次にある教会の礼拝堂の扉を押したら、中に入ることができて、夜が明けるまで礼拝堂の椅子に座っていた。すると誰かが一緒に居てくれたわけでもないのに、彼女の心は大きな温かな力に包まれ、「自分は生きていていいのだ」という思いに満たされたという話でした。「教会にはいつでもあなたの席が用意されている」。そのことをどのように礼拝堂にあらわせるのだろうと思い巡らします。

 

私たちに「福音」として告げ知らされた言葉。それは、決して朽ちない種であり、決して変わらない神の生きた言葉です(第一ペトロ1・23以下)。私たちを新しい命に生かす、この「朽ちない種、生きた言葉」を人びとに紹介し、一緒に礼拝にあずかる働きを、教会として大切に担っていきたいのです。