最も大いなる賜物   加藤 誠

「主体的信仰」とはどういう信仰でしょうか。バプテストのこだわりを考えて表現するなら、「親からの受け売りの信仰ではなく、また牧師や先輩信徒の言葉を『権威』にして追従する信仰でもなく、自分で聖書を読んで祈り、考え、選び取り続ける信仰」となるでしょうか。
大井教会は教会の役職のほとんどにおいて「立候補制」を大切にしてきました。教会の働きをある一部の人たちに「お任せ」して依存し、自分で考えることをやめてしまう時、教会の働きは硬直し、腐敗してしまう。教会が常に聖霊の自由でダイナミックな働きに開かれていくために、一人ひとりが聖書を開き、祈り、考え続けていく「主体的信仰」が大切になるからです。
この「主体的」という言葉は「主のからだ的」と読むこともできます。例えば、「その奉仕はわたしがやります」と手を挙げる前に、まずわたしたちは聖書を開いて祈り、「主よ、あなたの促しと励ましはどこにありますか?」と尋ね求めます。「わたし」ではなく「主の思い」が中心だからです。そのため、自分の得意なことではなく、苦手なこと、できれば避けたいと思う働きに押し出されることも起ります。同時に「主のからだ」として呼び集められている他の友と組み合わされ、一緒に建てられていくことを喜ぶ祈りが求められます。そこでは「自分が示されていた!」と思っていた働きを、他の友に信頼して委ねていくことも起ります。わたしたちにとって「主体」とは、「わたしのからだ」ではなく「主のからだ」のことだからです。使徒パウロが第一コリント12章で「キリストのからだ」を構成するさまざまな賜物を語りながら、最後に「最も大いなる賜物(=主の愛)を求めなさい」と勧めた理由がそこにあります。
「主の愛」なしに「主のからだ」は建たないのです。