断念 ーうれしい招きー   加藤 誠

「わたしたちを見なさい」(使徒3・4)。

ペトロとヨハネは、エルサレム神殿の門前で物乞いをしていた男にこう語りかけました。何と自信に満ちた言葉でしょう。下手をしたら非常に傲慢に聞えかねない言葉です。しかし、決してそうではないことがすぐ明らかになります。普通「自分を見てほしい」という雰囲気を醸し出している人は、自分が身に着けていたり、所有しているものを周囲にひけらかし、評価してほしい人です。その点で、彼ら二人は人々にひけらかせるような学歴も社会的肩書きも実績も、何も持ち合わせていない自分をよく知っていました。ただ彼らは、人間を生かすものは何であるかを身にしみて知っていたのです。「イエスの名」、すなわち「イエスのまなざし、言葉、行動、祈り、そしてイエスの信仰」。この「イエスの名」が、一人ひとりの心に照らし出される時、死んでいた者が生き返り、暗闇に閉じ込められていた者が希望の光の中を歩む者とされることを、彼らは自らの経験として知っていたのです。

 

今朝の第二礼拝では「神学校週間」を覚えます。「神学生」とは、「教会に仕える働きに専心することを願い、神学校で学ぶために、それまで手にし、いま手にしているものすべてを断念する人」のことです。しかし、そもそも「イエスのまなざし、言葉、行動、祈り、そしてイエスの信仰」を第一に選び取ることは、すべてのキリスト者に常に呼びかけられていることです。「イエスのこと」も「この世のこと」も、都合よく両方を手にして神に仕えることはできないからです。「断念し捨てる」ことの厳しさに、ついひるみがちなわたしたちですが、しかし、そこに込められたうれしい招きを聖書から聴いていきましょう。