招かれた「十一人」   加藤 誠

 マタイ二十八章によると、復活した主イエスの前に招かれたのは「十一人」の弟子でした。この「十一」という数字は弟子たちの不完全さをあらわしています。もともと主イエスに選ばれたのは「十二人」(イスラエルの完全数)であったにもかかわらず、そのうちの一人「裏切り者ユダ」が欠けてしまったのです。しかしイエスへの信仰を貫けなかった点では「十一人」も同罪でしょう。彼ら「十一人」は弟子としての不完全さを思い知らされた者として、ここに招かれているのです。

さらにマタイは「疑う者もいた」(マタイ2817)と記しています。この「疑う者」は複数形ですから、いまだに主イエスの復活を信じることのできない弟子が、十一人中複数名いたことを示しています。ある人は「こんな自分がイエスに招かれるなんて信じられない…という疑いではないか」と語っていました。マルコ十六章の「結び」を見ると、「復活の主と出会った!」というマグダラのマリアの言葉を聞いても、二人の弟子の報告を聞いても信じなかった「十一人」が主イエスからその「かたくなな心と不信仰」をとがめられています。「まだ信じられないのか!」。ため息をつかれ、愛想を尽かされ、見放されて当然の「十一人」が、ここに招かれているのです。

しかし、その「十一人」がバラバラに散ってしまうことなく、復活の主イエスのもとにみんな招かれ集まっている。みんながニコニコというわけではない。キラキラ「聖人」のように輝いているわけではない。ブツブツ言いながら、首をかしげながら、集まっている。なんとも不思議な光景ではないでしょうか。しかし、その「十一人」に復活の主イエスは大切な使命を託していきます。

この「十一人」の姿に「キリストの教会」の原点を見るのです。