我々の神殿? 我々の国民?  加藤 誠

「イエスがラザロを生き返らせた!」というニュースがエルサレム中を駆け抜けた時、ユダヤ教指導者たちは大きな不安をかきたてられ、最高法院を招集します。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(ヨハネ福音書11・48)。普段はユダヤ教の中の宗派間で対立することの多かった彼らが、「イエス殺害」ではすみやかに一致したのでした。

彼らが掲げた大義名分は「我々の神殿、我々の国民が滅ぼされてしまう」ということでした。ここで注目したいのは彼らが「我々の」と表現している点です。本来、エルサレム神殿もイスラエル国民も「神のもの」「神の御心に仕えていくべきもの」のはず。しかしユダヤ教指導者たちは「我々の」と言い替えて何の疑問ももたない。そこに彼らの「大きな勘違い」「堕落」があり、主イエスが最も衝突したところでした。「父なる神の家」を「自らの体制保持の道具」にしている様子に憤りをあらわにした主イエスは「こんな神殿はぶっ壊す!」と大暴れをして、その宣教活動を始めています(ヨハネ福音書2・13以下)。

 

大井バプテスト教会は「誰のもの」でしょうか。教会のさまざまな活動は「誰のもの」でしょうか。熱心であればあるほど「我々の教会、我々の活動」という言い替えがいつの間にか起こっていないでしょうか。「主なる神のもの」として「福音宣教のため」に用いられるために、常に批判と吟味に心開かれ、砕かれ変革されていくことにしなやかな者でありたいと願います。

今日から「世界祈祷週間」が始まります。わたしたちの中に常に生まれがちな「自分を守るための壁」が壊されて、主イエスのビジョンと祈りに心を合わせて、自分を差し出していく時となりますように。