強さでなく弱さの中に    加藤 誠

ヨセフとマリアが、「初子」として生まれたイエスをささげるためにエルサレム神殿に出かけた時のこと。多くの人びとが行き交う神殿の広場で、シメオンという老人がマリアの抱く赤ん坊を見つけて「この子はすべての民を救う」と神を賛美し祝福すると、アンナという年老いた女預言者も近づいてきて、同じように神を賛美し始めたのでした。

不思議なことです。一般の人びとが「子羊」を捧げる中、「鳩」しかささげられない貧しいヨセフとマリアでしたから、人目を引くような立派な服装であったわけがなく、むしろ貧しく慎ましい身なりであったはずです。なのに、なぜ、二人の老人はマリアの抱く赤ん坊に神の特別な光の輝きを見たのでしょうか。

 

主イエスが救い主であるということは、「誰が見ても分かる」ことではありません。「聖書をよく勉強したら分かる」ものでもない。なぜなら、主イエスは救い主としての姿を、「強さでなく弱さの中に」あらわされたからです。奇跡をおこない、病を癒し、新しい教えを説く主イエスの「力強さだけに」目をとめた人たちは皆、その無残な十字架の姿につまずきました。飼い葉桶に生まれ、十字架で死んでいく主イエスの「弱さと貧しさの中に」こそ救い主のしるしを見出すことは、神が示してくださらないと不可能なことであり、人間の知性や努力ではなく、ただ神の聖霊が働かれるときに可能となることだからです。

聖霊の働きが私たちの心の目をひらき、私たちに神への賛美が起こされるとき、その神賛美は私たちの人生のあらゆる場面を照らし、導く光となります。神賛美は、どのような苦難と悲しみの中においても決して奪われることのない喜びと平安と希望を、私たちに届けてくれるのです。