希望     加藤 誠

 私たちは、それぞれ神さまからいただいた人生を歩んでいます。比較すべきものではないと知りつつも、「どうしてこんなにも違うのか」、時に「残酷」とも思える「彼と我の違い」に愕然とし、どう言葉を発してよいのか分からないことがよくあります。

 例えば、わたしは阪神淡路大震災を経験しましたが、あの災禍の中、生き残った人と命を落とした人がいました。すべてを守られた人の傍らで、人生を根底からひっくり返された人がいました。その「違い」は何なのでしょうか。生き残った人が「神様が助けてくれた」と表現する時に、では亡くなった人は「神様が助けてくれなかった」のでしょうか。神の愛のもとに人の命は平等であるという時に、どうしてこんなに「不平等な現実」があるのでしょうか。

 

 イエス・キリストは多くの人々の病を癒されましたが、その時代のすべての人の病を癒されたわけではありません。神の助けや守りは、常にわたしたちの望む形で行われるわけではないし、神の愛がいつも見える形で分かりやすく示されるわけでもない。「神の愛は一人ひとりの人生の上にどのように実現しているのか」。その問いへの答えは、今すぐにはわからないけれど、いつか「神の国と神の義」が見える形で実現する時に教えていただけるのだというのが、聖書が示す希望です。その希望の根拠として、イエス・キリストが二千年前の十字架において「すべての人」に対してあらわされた、決定的な神の愛の業を聖書は語るのです。その慰めと喜びと希望の福音を今朝、聴いていきましょう。

「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(第一ヨハネ2・2)。