巻頭言「畑に隠された宝 加藤 誠 」

「天の国は次のようにたとえられる」。

主イエスはいろいろなたとえを用いて「天の国」つまり「神の愛の支配」がどのようなものであるかを教えられた。「たとえ話」は教義よりもずっと人びとの心に残りやすく、民衆はみんな喜んでその教えに耳を傾けたことだろう。

「畑に隠された宝を見つけた人」と「高価な真珠を見つけた商人」のたとえ(マタイ13・44以下)はよく似ている。二人とも持ち物をすっかり売り払うという大胆な決断を迷うことなく実行した。「この宝/この真珠は、今、自分が持ち合わせている財産よりもずっとずっと価値がある!」と確信できなければできない行動だろう。

「財産を売り払うというリスキーな行動をしなくても、畑で見つけた宝をそのままポケットに入れることも出来たのに…なぜ?」とか、「この商人は自分の審美眼に相当の自信を持っていたのだろうな。もし偽物をつかまされたら彼の人生は台無しになってしまうのだから…」などと、いろいろ突っ込みを入れながら読むのが「たとえ話」の面白いところだ。

そうこうして読むうちに、主イエスと出会った弟子たち、ペトロやヤコブ、徴税人マタイやマグダラのマリアたちがすべてを後ろにおいて主イエスに従った姿が見えてきた。「イエスは、自分が持ち合わせているもの、すべてを凌駕する宝であり真珠だ!」と信じ、賭けたのだった。徴税人の頭ザアカイもそうだし、使徒パウロもそうだ。パウロはそれまで誇っていた学歴や社会的地位や栄誉を「塵芥(ちりあくた)にすぎない」と捨てるほど、主イエスの福音に惚れ込んだのだった。私たち大井教会もまた、イエス・キリストという方に「畑の中の宝」「高価な真珠」を見出だし、大胆に従う者たちの群れでありたい。