巻頭言「希望はいったいどこに? 加藤 誠」

 「七つのパン」(マタイ15章、マルコ8章)の話は福音書の中では注目されることのない話の一つだろう。「五つのパンと二匹の魚」の話があまりにも有名で、ほぼ同じストーリー展開の「七つのパン」の話は読み飛ばされることが多いような気がする。なぜ、ほとんど同じ内容の話を、マルコとマタイはわざわざ収録したのだろう…という思いで改めて読み直してみる。

 ハッとさせられるのは次の主イエスの言葉である。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」(マタイ15・32)。

食べ物がない中、三日も主イエスが一緒にいたのはどういう人たちなのか。直前を読むと、主イエスのもとに「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人びとをいやされた」(同30節)とある。主イエスの周りに横たえられたおびただしい人、人、人…。その一人ひとりに手を置いて祈られた主イエスもまた、三日間ほとんど食べ物を口にする間がなかったことだろう。まるで今のコロナ禍における病院の状態と、入院を待つおびただしい人たちの姿に重なるものがある。 こんなにも大勢の、切実な苦悩を抱えた人たちに囲まれている光景を想像すると「希望はいったいどこにあるというのだろう」という思いになるが、その中で「空腹のままで解散させたくない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない」(同32節)とつぶやき、人びとの真ん中で祝福の祈りを唱えて礼拝をささげられた主イエス。その主イエスの存在と深い慈しみのつぶやきにこそ、神の国につながる希望が見えるような気がする。この方が居てくださり、この方が祈ってくださるから、私たちもまた祈り、賛美することができるのだ