巻頭言「収穫の主に願いなさい 加藤 誠 」

 「(イエスは)群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9・36)。

ここで「飼い主」とは「人びとの命を養い守るべき権力者」のことであり、主イエスは私腹を肥やす権力者のもとで命を踏みにじられている人びとの姿に深く胸を痛められたのだった。もし主イエスが今の日本で「御国の福音」を宣べ伝えられたなら、そのまなざしに「飼い主がおらず、弱り果て、打ちひしがれている羊」として映るのはどのような人びとであり、「収穫の主に願え」とはどういう意味なのか。主イエスの「まなざしの先」を具体的に想像し、教会の使命を考えることは大切な課題だと思う。

 例えば、長崎の大村入国管理センターで外国人支援に取り組む柚之原牧師(長崎インターナショナル教会)は次のように訴えている。

 「日本の難民認定率は先進国の中で最低(0・四%)で、世界基準では明らかに難民とされる人々が『不法入国者』と扱われています。『不法』と聞くと犯罪者をイメージする人が多いかと思いますが、母国に帰ると迫害を受ける難民、さまざまな事情で不法滞在となった留学生など犯罪とは無関係な人が多いのです。近年、特に増えているのはベトナム、フィリピン、インドネシアなどの技能実習生です。多くは職場から失踪、不法滞在の理由で収容されます。しかし、それぞれの背景にある過酷な労働実態を知れば、それが無責任な失踪ではなく、自分の命を守るための避難であることがわかります。時給四百円以下の低賃金、給与の未払い、契約違反、長時間労働、いじめ、暴言…。差別され、経済的に搾取された外国人と面会で会うたび、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになります」(『百万人の福音』二〇二〇年十月号より)。