巻頭言「主は、山を下りて 加 藤 誠 」

 新型コロナウィルス感染症の拡大が続き、終息の兆しがまったく不透明な中、教会として「共に集うこと」がかなり制限される状態がしばらく続きそうです。従来の教会プログラムがほとんど成り立たない中で、「こんなときだからこそ止めずに続けたい」という公園クラスの働きがあります。逆に「こんなときだからこそ始めてみたい」という試みが生まれています。すでに「オンライン分級」が第一礼拝や少年少女の間で行われたり、クラスの枠を超えて「オンラインでおしゃべりしませんか」という試みがあったり、父親コーラスは近々「オンライン練習」にチャレンジしてみるとか。あるいは今年のクリスマスは今までの枠から自由に新しい発想でプログラムを考えてみたいという話もでていますし、「オンライン読書会」のような場で聖書が示す福音や教会の働きについてじっくりと考える場があると良いかもしれません。従来の枠だけで「教会」を考えると気持ちが重くなりますが、「こんなときだからこそ」、しなやかに、したたかに、楽しく、何よりも「主イエスの福音(喜びの知らせ)」をいただいているうれしさを分かち合っていきたいと願います。

さて、新礼拝堂建築の工事がいよいよ始まっていく時に、改めて聖書から「礼拝」あるいは「教会」について聴いていきたいのです。

マタイ八章には「山を下りる主イエス」が描かれます。「山」は静かに神の語りかけに聴く場ですが、主イエスはその「山」を下りて、人々が苦悩を背負い生きている暮らしの中に分け入っていかれるのです。「福音(喜びの知らせ)」を人びとと分かち合い、人びとの苦悩の場が礼拝の場に変えられるためにこそ、主は来られたからです。