巻頭言「主が招かれる食卓 加藤 誠 」

 プロテニスの大坂なおみ選手が八月二三日に米国で起こった警察官による黒人男性銃撃事件に抗議してテニスの大会の準決勝を棄権した際、彼女はツイッターで次のような思いを発信している。「わたしはアスリートである前に一人の黒人の女性です。わたしのテニスを見てもらうよりも、今は注目してもらわなければならない大切な問題があります。相次いで起きている警官による黒人の虐殺を見ていて腹の底から怒りがわきます」。この決断に対して「スポーツに政治を持ちこむな」という批判が寄せられると、大坂選手は「これは人権問題です」と毅然と答えた。つまり「銃撃された男性とわたしの命はつながっている」、「わたしの生きる意味が問われている問題であり、これを素通りしてしまったら、わたしはわたしではなくなってしまう」ということだろう。二二歳の女性がこれだけ明確に自分の意思をあらわし毅然と行動する姿に衝撃を受けると共に、鋭い問いを突き付けられた。「これだけはゆずれない。素通りできない」という生き方を自分はできているだろうかと。

 主イエスは、闇の中の私たちを照らす「光」だが、その「光」は私たちが抱えている心の闇や歪みをあぶりだすような挑戦的な輝きである。マタイ福音書九章で主イエスが「徴税人」を弟子にしたり、「徴税人や罪人」と一緒に食卓を囲む姿は、当時の人々に相当に衝撃的な問いだったことだろう。ここで主イエスを非難している律法学者も主イエスも「同じ聖書」を読んでいるのに、そこから導き出される生き方は「真逆」だった。つまり「聖書」を読んでいればよいということではない。主イエスの「光」に照らされて、わたしは聖書をどう読み、何を大切に選び取っていくのか、そのことが問われている。