巻頭言「それでも切り株が残る 加藤 誠」

 忘れられない日。忘れてはいけない、語り継いでいくべき日がある。

わたしにとっては一月一七日がそうである。朝五時には身支度を整えて、五時四六分の黙祷に備える。神戸の東遊園地に集まり、六千四百三十四本のローソクに火を灯して黙祷をささげる人々に心を合わせる。

 教会と幼稚園が近所の避難所になり、炊き出しなどの支援活動に取り組みながら過ごした日々、心の支えになり、指針になった御言葉がいくつかある。

 震度七強の地震に襲われる三十分前に不思議な形で与えられた使徒言行録3・6「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。

 震災後、最初の主の日(一月二二日)、『聖書教育』のカリキュラムで示された御言葉。コヘレトの言葉3・1~11「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。…神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」。

 そして、もう一つはイザヤ書6・13「なお、そこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である」。

 それまでの「当たり前の日常」が根底からひっくり返される中で、「なくてならない一番大切なもの、今、この時なすべき務めとは何か」を深く問い直され考えさせられる中、聖書の御言葉が指し示す「光と命」に慰めと力を与えられ希望を示された。今、コロナ禍で根底から揺さぶられている私たちに問われていることも、同じものがあるのではないだろうか。