小犬の信仰    加藤 誠

マタイ福音書十五章に描かれている「カナンの女」と主イエスのやり取りは実に不可解で、スリリングとユーモアに満ちています。
主イエスの彼女に対する態度は徹底して「冷たい」のです。まず、娘の苦しみを必死に訴える彼女の叫びを無視します。次に「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えるのですが、これは「異教徒であるあなたのことは、わたしの範疇外だ」という拒否です。さらに「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」という言葉には、当時のイスラエルの人々が異教徒を「犬」と呼び捨て軽蔑したニュアンスが反映されていて、聴く側が「侮辱と差別」と受け取っても仕方ない言葉です。
無視、拒否、侮辱…。これほどまでに冷たい態度を取られたら、わたしならブチ切れ、怒りと失望に満ちた棄て台詞をぶつけて立ち去っていきそうなところを、「カナンの女」はみごとにユーモアをもって切り返します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(15・27)。すると、主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」(同28)と答え、彼女の娘は癒されたのでした。

神は愛なる方であるはずなのに、わたしたちには神の対応が不可解で冷たく感じられることが多々あります。わたしの叫びはちゃんと聴かれているのだろうかと、いぶかしく思われることの方が多いかもしれない。しかし、今朝の聖書から示されるのは、主イエスに届いていない叫びはないこと。主イエスは主イエスの方法で、人間のつくりだした差別、偏見、対立を乗り越え、わたしたちを共なる神賛美に導かれる方だということなのです。