失われたものを捜し救うため   加藤 誠

アドベント第三主日、「喜び」のローソクに火が灯されます。主イエスと出会った人々に与えられた「喜びの光」。それはどんなに時代の闇が深く覆うときにも、人々の心を照らし出し、慰め、励まし続ける「光」です。

 

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2・17)。この短い言葉に、イエス・キリストの福音のエッセンスが詰まっています。

第一に、「人間が作りだすレッテルは、神の前にはまったく意味がない」ということです。当時はユダヤ教の律法に基づいて「正しい人」と「罪人」のレッテルが貼られ、そのレッテルが人々の心までをも支配し差別を生み出していました。しかし、主イエスはそのレッテルを軽々と越えて、誰とでも人として出会ってゆかれたのです。そこに大きな「喜び」があふれました。

第二に、「自分を正しいとする人に神は遠く、自分の罪を自覚している人に神は近い」ということ。そして第三に、「そもそも、神の前に正しいと言える人間は一人もいない。すべての人間が罪を抱えており、神の救いを必要としている」ということです。この場合の「罪」とは、創り主なる神に背を向けて、その語りかけに耳をふさぎ、自分の力だけで生きようとしている姿を指します。

主イエスは「わたしは失われたものを捜して救うために来た」(ルカ19・10)とも言われましたが、「失われたもの」とは本来あるべき場所、神の愛のふところから飛び出してしまい、道に迷ってしまった「わたし」を指しています。その「失われたもの」を捜しだし救うために来てくださった方の言葉を、アドベントに聴きましょう。