土の器におさめた宝      加藤 誠

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(第二コリント4・7)。使徒パウロは自らのことを「土の器」と呼びます。「土の器」は旧約聖書でも知られた表現で、主なる神に形づくられ命を吹き込まれた人間の被創造性(イザヤ45・9、エレミヤ18・6)、そのもろさ、弱さ、価値のなさ(哀歌4・2)をあらわす表現です。それだけではありません。「常にイエスの殺害をこのからだに負って歩きまわっている。それはイエスの生命もまた、私たちのこのからだにおいて明らかにされるためである」(岩波訳・同4・10)というように、パウロは「イエスの殺害」に責任を負う自分を語る言葉として自らを「土の器」と呼んだのでした。

パウロという人はイエスと出会うまで、自分が「土の器」であるなどと考えたことはなかったようです。彼はユダヤ教の律法に照らして「非の打ちどころのない者」(フィリピ3・6)と自認していました。しかしイエスと出会い、そういうおごり高ぶった自分こそが神に最も背を向け、イエスを十字架に追いやった張本人であると思い知らされ、それまでの信仰をひっくり返されます。そして、パウロは「土の器」=「神の子殺害者」たる自分が生かされる道として、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ」る力を頼みとする者にされたのでした(第二コリント4・14)。

 

日本国憲法が制定され68年目の記念日を迎えます。アジア太平洋戦争の歴史的責任としっかり向かい合う道は「自虐」「後ろ向き」などではありません。人間の罪に対して勝利された十字架のキリストの力に信頼して、人と人との間に和解と平和を祈り求めていく、きわめて創造的で勇気を要する道だからです。