喜びの源、生きる力 ~喜びの灯~   加藤 誠

 使徒パウロはこう語っています。「いつも喜んでいなさい」、「キリスト・イエスにおいて」(第一テサロニケ5・1618)。私たちには毎日喜べないことが起こる。悲しかったり納得できなかったり、自らの情けなさ心折れたり…。それでも「私たちは喜ぶことが出来る」とパウロは言う。なぜなら主イエスが私たちの「喜びの源、生きる力」として共に歩んでくださっているからです。

 

 若松英輔という作家が自らの師と仰ぐ井上洋治神父を語りながら、次のように書いている文章に出会いました(『種まく人』若松英輔)。

 「苦しむ者は、苦しいとは言わず、悲しい者は、悲しいと声を上げない。受け取る者がいないとき人は、本当の声を発することはできない。私たちは、孤独な人のもとを訪れて、何かを語ろうとする。だが、苦しむ者が望んでいるのは、何か有益な言葉を聞くことよりも、自分のおもいを受け取ってもらうことだ。聞くことは、しばしば、語ること以上のちからを有する。」

 

 これを読みながら、苦しみや悲しみの中で言葉を発することが出来ずにいる一人ひとりの、心の奥底から生まれる声を静かに受け取り、その人自身の生きる力と喜びを取り戻していかれた主イエスの働きを思いました。

 ルカ七章には、主イエスの足もとにひざまずいて涙で足を洗う、町の人々から「罪深い女」と呼ばれてきた女性が描かれています。この場面で彼女は一言も発していません。ただその頬をつたう涙が語っている言葉がある。それは、彼女にとって主イエスは、その町でただ一人、彼女の心の奥底のおもいを受け取り、彼女に生きる力と喜びを与えてくれた救い主であったということです。