命の交わるところ 加藤 誠

東日本大震災から九年を迎えた三月一一日。岩手県の内陸部に住む知人がこのようなことを語っていた。「同じ東北でも内陸部と沿岸部では、大震災の『被災体験』はまったく違う。あの激しい揺れを体験した共感は語れたとしても、各々の『被災体験』は隣家同士でも異なるものであり、他の人が容易には『わかる』とは言えない、その人、その家族だけの『孤独』な体験なのだ」。

私たち人間が神さまからいただいている命は「それぞれにユニークなもの」。たとえ夫婦であっても、最後は一人で死んでいき、それぞれ神さまの前に一人で立たなければならない「孤独」を生きているのだ。

マルコ五章には、主イエスに癒された二人の女性が登場する。一人は会堂長ヤイロの十二歳の娘、もう一人は十二年間出血が止まらず苦しんできた女性。会堂長は「地域の顔役」のような人物であり、ヤイロの娘は比較的恵まれた家庭環境で育ったのだろうと想像される。一方の女性はユダヤ教の律法で「不浄」とされた病気ゆえに、家族の間でも疎まれ、地域の交わりからも排除されて、孤独の悲しみを強いられてきた十二年間であったと想像される。彼女はヤイロのように正面からイエスに近づくことが許されず、イエスを取り囲む大勢の群衆に紛れ込み、後ろからそっと服に触れるしかできなかった。

ふつうなら決して交わることのない二つの命が、ここでイエスという方において交わる。それぞれ「孤独」を生きるしかない一人ひとりの前を、決して通り過ぎることなく、その悲しみと呻きを受け止めてくださる方。一人ひとりの命の癒し主であり、平安と希望に生かしてくださる方。この方の慈しみのもとで、それぞれ孤独を生きる命は交わり生きる場をいただくのだ。教会という交わりの場に与えられている豊かな可能性を感謝して覚えていきたい。