信仰を糧とする幸い 加藤 誠

「聖書の信仰とは何か?」と尋ねられたら、「それは神の愛につながることであり、神の希望につながることです」と答えたいと思います。

 

人間が生きるのになくてならないもの、それは神の愛です。神の愛なしに、私は自分自身を生きることも出来ないし、誰かと一緒に生きることも出来ません。私が持ち合わせている愛は本当に貧しく、自己中心的な愛にすぎないからです。それに対して、神の愛は義人の上にも悪人の上にも隔てなく注がれる愛。その神の愛をイエス・キリストにつながり、日々学んで生きること。それが聖書の示している信仰です。

また、私たちが抱えている罪(神への反逆)の行き着く先は滅びであり死です。それは私たち自身の日ごろの営みを見れば分かります。自らのちっぽけな「正義」を掲げてどれほどの悲しみと痛みを生み出していることか。その死と滅びの悲惨をイエス・キリストが引き受けて、復活と命の希望に変えてくださる。その希望がなければ、私たちは生きることができないのです。

 

さて、今朝の第二礼拝では「敬老感謝」を覚えて、詩編三七編に聴きたいと思います。この詩編は「年を重ねた老人の知恵」と呼ばれているもので、ユダヤ教の伝承では晩年のダビデ王が自らの人生を振り返りながら、人生の後輩たちに向けて「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ」(3節)、「主は人の一歩一歩を定め、御旨のかなう道を備えてくださる」(23節)と呼びかけ、諭し、励ましている賛美歌です。神を喜びとして生きる人生の幸いを歌った詩編に共に聴いていきましょう。