主イエスのもとに「共に集う」  加藤 誠

 先の定期総会の報告で、新礼拝堂建築委員会から「新礼拝堂建築基本構想」案が示されました。いよいよ、施設・設備の広さやレイアウト、資金計画などが具体的に検討される段階になります。心に思い描く理想と自分たちの力量とがぶつかり、葛藤し、意見が割れ、衝突が起こる場面が増えてくるでしょう。そのような時ほど、自分たちが依って立つ信仰、基本理念をくりかえし語り合い、確認していきたいのです。
 なぜ、わたしたちは礼拝堂を必要とし、祈り求めるのか。
主なる神が壮麗な礼拝堂を求めているわけではない。創造主なる神は人間の造った建物には収まりきらないからです。また、教会は建物ではなく、イエスをキリストと告白する人々の交わりですから、礼拝堂がなければ教会にならないということでもありません。
一方で、教会は最初期から「共に集うこと」を大切にしてきました。各自が聖書を読み、祈っていれば良い…ではなく、「共に集うこと」の大切さを体験してきたからです。聖書のキリストの言葉に集中し、神に心を向けて一緒に賛美する。互いが語る聖書の言葉、証言を聴きあい、祈りを合わせる。わたしたちの真ん中に生きて働く復活のキリストを体験するところで、人間の集まりが「キリストのからだ」として組み合わされ、「教会」として建てられていくからです。
マタイ福音書の「山上の説教」(五章~七章)は、主イエスの「幸い宣言」に始まる新しい生き方への招待状です。主イエスの足もとに座り込み、その言葉に集中している人々に、わたしは教会の礼拝の原点を見るのです。