主を畏れ敬う霊に満たされて  加藤 誠

アドヴェント第二主日。「平和」について聖書から聴きます。

多くの人が「平和」を願い求め、多くの国が「平和」の実現を声高に叫びます。なのに、現実にはお互いに憎しみをぶつけ合い、命を奪い合う現実が繰り返されている。これはいったいどういうことなのでしょうか。

昨年の夏に外国人登録法が改正され、テロや犯罪防止の大義名分のもと外国籍住民は引越しなどの異動にも厳しいチェックが課されるようになりました。その直前には警察がカトリック教会の礼拝に来た外国人に職務質問をして不当逮捕する事件が起こりました(後日、警察は謝罪)。日本は今や多くの外国人労働者に支えられなければ経済が成り立たない国であるのに、外国人を危険視し、蔑視する思想をますます強化していく。そこにイメージされている「平和」は、ほんとうに「平和」と呼ぶに値するものなのでしょうか。

 

イザヤ11章は、南ユダ王国にアッシリア帝国の脅威が迫り、王たちが右往左往している時に語られた預言です。彼らの目前で北イスラエル王国が壊滅し、都エルサレムがアッシリア軍に滅ぼされるのも時間の問題と思われている時に、イザヤは根源的な「平和」のイメージを示します。「主を畏れ敬う霊に満たされた」新しい王が(11・3)、人と人との間に正義と公正を実現し、動物同士の間でも驚くべき「平和」が実現するというのです。人々は「こんなユートピアを語って何の意味がある?」と批判したことでしょう。が、「大地が主を知る知識で満たされる」(同9)救いに向けて、主なる神はその創造の初めから今まで働き続けてきたし、これからも働き続ける。この世の救いにかける神の情熱と祈りこそ、イザヤが示そうとしたものです。そして、イザヤ預言から七百年後、イエス・キリストがその「平和」を体現したのでした。