主は心を見る   加藤 誠

「わたしの見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(口語訳:サムエル記上16・7)
人は外見にとらわれ、時として惑わされます。しかし、主なる神は人の目に隠されたところに目を注ぎ、その心を見られるのです(マタイ6・5~6)。
マルコ十二章の後半には「見せかけの行為」に対する主イエスの厳しい非難が並んでいます。一つは、広場で「先生」と挨拶されることを好み、見せかけの長い祈りをする「律法学者たち」に、もう一つは神殿の賽銭箱にこれ見よがしにお金を投げ入れる「金持ちたち」に対して。当時の賽銭箱はラッパ形で、人々は広い口に向かってお金を投げ入れたといいます。まだ貨幣しかない時代ですから音が響くのです。ジャラジャラと大きな音がすれば多額の献金であり、チャリンと小さな音であればわずかな金額であることが周りに分かってしまうのでした。貧しいやもめが入れたというレプトン銅貨は「うすい」という意味で最小単位の銅貨でした。ほんとうにわずかな金額だったのでしょう。しかし、その姿を見ていた主イエスは、「彼女こそ、もっとも多くのささげものをした。貧しさの中からすべてささげた!」と言われました。彼女の姿に、神に向かう全身全霊の祈りを感じ取られたからだと思うのです。
神はすべてをお見通し。その神の前でわたしたちは自分の弱さや恰好悪さを隠したり、ごまかす必要はない。わたしたちの弱さをすべて包み込み覆ってくださる方として主イエスは来られたからです。人々の目を気にすることなく、まっすぐ神に向かい、自分を差し出していく信仰をいただきたいのです。