主の顔を避けて   加藤 誠

ヨナという男は、およそ預言者らしからぬ人物です。預言者は「神の言葉を預かり語る者」ですが、ヨナはその使命を放り出して逃げます。

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。……しかし、ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」(ヨナ書1・1.3)。

「主から逃れようとして」とは「ヤハウェの前を避けて」(関根訳)、「エホバの顔を避けて」(文語訳)。主なる神と向かい合うことを避け、下を向き、隠れるようにヨナは姿をくらますのです。

しかし、ヨナが乗り込んだタルシシュ行きの船は大嵐に遭い、船員たちが「この嵐はいったい誰の罪のせいだ?」とくじ引きをしたところ、ヨナに当たります。ヨナはこの時、全身を激しい電流が貫くような衝撃を覚えたことでしょう。「主の顔を避けて逃げることは不可能だ…。すべては神にお見通しなのだ…」。観念したヨナは自らの逃亡を白状し、「手足を縛って海の中に投げ込んでくれ」と申し出ます。が、嵐の海に沈んだヨナを大きな魚が飲み込み、ヨナは魚の腹の中で九死に一生を得て、神に立ち帰る祈りをささげたのでした。

 

先週の教会の「聖書日課」でちょうどヨナ書を読む機会が与えられたので、数回に分けてヨナ書に聴きたいと思いました。たった四章の短い物語ですが、どんでん返しに次ぐどんでん返しの展開の中に、いろいろ考えさせられるテーマが詰まっている興味深い書です。およそ預言者らしからぬヨナという男を用いる「神の懐の深さ」、当時のユダヤ教主流派から厳しい批判を浴びたであろう「異教徒をも慈しむ神」など、ヨナ書が問題提起しているテーマに心を寄せながら、今の私たちに向けられている神の思いを共に考えてみたいのです。