主の言葉が人を生かす   加藤 誠

今週水曜日から「受難節(レント)」に入ります。神の愛を伝えるために生きたイエス・キリストがなぜ十字架に追いやられねばならなかったのか。わたしたち人間が深く抱えている罪と、その罪を打ち破って示された神の救いの業を心に深く刻む、イースター前の四十日間(主日を除く)。初代教会ではこの受難節にバプテスマ志願者たちが断食しながら訓練を受け、イースターに備えたと言います。イエス・キリストに徹底して集中し、自らの信仰を吟味したのです。今年、「わたし」は受難節をどう過ごしますか。「いつのまにかイースターを迎えてしまった…」で終わらないように、一人ひとりが祈りを整え、聖書に向かい、十字架の主イエスに心を合わせていきたいのです。

 

マタイ9章には「娘を病気で亡くした父親」と、「婦人特有の病気で長く苦しんできた女性」が出てきます。父親は地域のユダヤ教指導者であり名士でした。その彼が「大工の息子」に過ぎないイエスの前にひれ伏して「娘を生き返らせてほしい」と頼みます。自らの面子を捨てて地面に頭をつけ懇願する父親の姿が見えてきます。一方、女性はその病のゆえにユダヤ教の律法で「ケガレている」と断罪され、公の場に出ることを禁じられていた人です。彼女は癒しを願い、群衆に紛れ込んでイエスの服に触れました。「後ろから」。勇気を絞り出し伸ばした手の震えが伝わってきます。しかし主イエスはなぜか、この二人の切実な願いに即応する形では「癒し」を差し出していません。それは二人が「自分の願いを叶えてくれる神」ではなく、「命を与え、救いを宣言する神」としての主イエスに出会うためでした。「人間の願い」と「神の救い」との間には深い断絶があることを、わたしたちは知らなければならないのです。