主によってしっかりと立つ   加藤 誠

だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリピ4・1)。

 

大井教会の聖書日課は今ちょうど「出エジプト記」で、モーセに率いられたイスラエルの人びとがエジプトを脱出する場面を読んでいますが、何度読んでも面白いなぁと思います。人びとはモーセが語る主なる神が「理解できない」。彼らはエジプトに四百年以上住んでいる間にすっかり忘れた、というより信仰の伝承がすっかり途絶えてしまっていた。

人びとはモーセに尋ねます。「お前の語る神はどんな方なんだ?」。モーセ「我らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに親しく語りかけ、彼らの旅路を祝福してくださった方だ」。人びと「その神が今の俺たちとどんな関係があるんだ?」。「どうして荒れ野に出ていって、過酷で危険な旅をしなければならないんだ?俺たちは荒れ野で死にたくない。エジプト人に仕えている方がずっとましだ…」。

人びとは「知らない」のですから無理もないのです。その不安、心配もよく分かります。けれど、信仰は体験しなければ「分からない」。一歩踏み出さなければ「分からない」。エジプトに居続ける限りは、絶対に「分からない」のです。先日、七十四歳で急逝した松山西教会のシェラー先生がよく言ってました。「幼い頃、湖の中から父親が、『飛び込んでごらん。大丈夫だよ。ちゃんと受け止めるから!』と笑顔で言うんだけど、子どもの僕はどうしても飛び込めなかったんだよね…。でも神さまは、ちゃんと受け止めてくれるんだよ」。

使徒パウロも信仰を「体験した人」でした。頭の中でぐるぐる考えている限りは「分からない」。神さまに向けて一歩踏み出した時「分かる」のです。