一歩の幅の土地さえも   加藤 誠

初代教会のリーダーの一人ステファノが逮捕されて、自らの信仰を語る機会を与えられます(使徒7章)。この「説教」がユダヤ人の激しい反発を買い、彼は最初の殉教者となるのですが、その「説教」をあらためて読む時、アブラハムが何の財産も保証されていない中、ただ神の約束を信じた姿に心がとまります。「一歩の幅の土地さえも」(使徒7・5)与えられなかったとは、安心して定住する場所を持たない「寄留者」であったことを意味します。続けて紹介されているヨセフもモーセも、実に多くの苦難と共に「寄留者」としての人生を生きた二人です。彼らの人生は自分の願いとはまったく異なる場所に持ち運ばれ、自分の計画とはまったくかけ離れた生涯でしたが、まさに神が必要とされた場所で、与えられた賜物を大いに用いられた生涯でありました。

 

21日、郡山コスモス通り教会の金子千嘉世牧師就任式に参加しました。三年間の震災支援活動の中で自ら甲状腺がんを患い、摘出手術を受けた金子牧師が、原発事故の放射能被害に引き裂かれている地に招かれ、教会の人々と共に立つ。「できれば逃げ出したい。ほんとうに自分でいいのか」という、ギリギリの問いを何度も繰り返しながら、「主よ、御言葉をください」と祈り続けている。「あの3・11以来、わたしたちは礼拝堂の窓を一度も開けていない。教会の窓を大きく開け放ちたい。心の窓を大きく開け放ちたい。子どもたちの健康が守られ、何とか伸びやかに育っていってほしい」と語る教会員。自分の意志や願いとはまったくかけ離れた環境の中で、しかし、そこに先立つ主の約束を信じて共に歩んでいこうという信仰が深く心に迫りました。さて、わたしたちは「一歩の幅の土地」と「主の約束」と、どちらを握りしめて生きるのでしょうか。