キリストのうちに死ぬ   加藤 誠

先日91歳で天に召された菅原洸人さん(神戸教会員)という画家がおられます。「幼児期は弱虫で泣き虫で寝小便たれで、劣等感のかたまりだった」という彼の人生を変えたのがヨハネ福音書11章25節の御言葉でした。

山形の寒村に生まれ、12歳で北海道に養子へ。16歳で家出をして、自分の生き場所を探し放浪を重ねた菅原さんでしたが、陸軍に入り、「これでようやく母親に恩をかえし、お国のために死んで情けない自分を清算できる」と勇んでいた矢先に肺結核で喀血します。「気の弱い私は死刑宣告同様、どん底に突き落とされた」。故郷に帰るものの周囲の視線は冷たく、母にも肩身が狭く、悶々とした日を送っていたある日、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」(口語訳)の御言葉に釘付けになるのです。

「死んでも生きられるのなら、もう病気で死ぬのも恐くない。現世ご利益をとなえる宗教は多いが、罪と悩み多き人間を救うために、我が身を十字架につけてまで、我々を愛してくださるのだ。このような宗教に出会ったのははじめてだ。これこそ本物だ…よし生きている限りこの神様イエス様を信じようと決心したら、自分でもどうしてか、ニコニコと心からの笑顔が続くようになった。食事を運んできてくれた母はけげんそうな顔をした」。

この時、菅原さんは生きる場所というより死ぬ場所を見つけたのだと、わたしは思います。ふつう私たちは自分が生きる場所、生かされる場所を探しますが、そこには自己中心、エゴが残り続けます。自分を生かさない周囲に不平をこぼします。が、自分が死ねる場所、すべてを委ねて後悔しない場所を見つけたとき、人は無駄な力、欲をそぎ落とされ、真実なものを追求して生きる者とされていくのです。菅原さんがキリストのうちに死ぬ道を見出した時、彼はキリストが与えるよみがえりの命に生かされる者に変えられたのでした。