キリストにある希望    加藤 誠

今年二月に急逝した大杉漣さんの主演映画『教誨師』を観ました。大杉さん演じる教誨師の牧師が、拘置所の面談室で六人の死刑囚と対話を重ねていく映画です。新米の教誨師である佐伯は、死刑囚の心を少しでも「救いたい」と考え、工夫しながら聖書の教えを語ろうとするものの、それぞれ個性的な死刑囚の前にまったく歯が立たないのです。反発されたり、馬鹿にされたり、嘘に振り回されては徒労感と挫折を味わい、宗教者としていったい何ができるのかを自問自答するなかで、最後に「自分にできることは何かを教えることよりも、その人を受け止め、ただ一緒に歩むこと」と体得していく姿が印象的でした。

 

原作となった、浄土真宗僧侶の教誨師の本(『教誨師』堀川惠子)を手に取ると、その仕事がいかに過酷なものであるかを知らされます。面談室で向かい合う死刑囚たちは、とても人を殺すような「極悪犯」には見えない、穏やかな人が多い。いったいなぜ取り返しのつかない罪に手を染めたのかを聞き出していくと、生まれ育った境遇に深い問題を抱えているケースも少なくない。自らの罪に向き合うよりも、周囲や社会への憎悪に満ちている場合も多く、それでも何とか時間をかけて少しずつ心がほぐされて親しくなっても、最後にはその人が極刑で命を絶たれていく場面に立ち会わなければならない。そのために教誨師である僧侶の心と体はボロボロに傷ついていくのです。

人間がかかえる「救いがたい罪」と向かい合いながら、「人が生きる意味はどこにあるのか?」を見出そうとする試みはなんと過酷な道であることか。教誨師の働きを通し、イエス・キリストが背負われた十字架の重さと、復活が示す希望を考えさせられています。