イエスに目を据えて   加藤 誠

東日本大震災から八年。東北で支援活動に携わり続けている諸教会が共同で「祈り」を言葉にしています(『東日本大震災から8年目を数えての祈り』)。

 

(前略)助かった命は、亡くなった命を忘れることができません。愛する者の死をどう受け止めていいのかわかりません。どんなに考え悩んでも、この問いを納得させるような答えが見つかりません。傷みと悲しみを抱きかかえながら、神への問いかけがなくなることはありません。

主よ、憐れんでください。「なぜ」、「どうして」という問いの前にたたずみ、受容の時が少しずつ満ちていくことを祈り求めながら、私たちは「今生かされている時」を受けとめていきたいのです。(中略)

主よ、憐れんでください。十字架と復活の主イエスを仰ぎ見ながら、 慰めに満ちた執り成しを祈ります。(後略)

 

傷みと悲しみと問いを抱えながら生きる一被造物に過ぎない私たちが、創造主なる神になり代わって語る言葉/答えを持つことは不可能ですし、厳に慎むべきでしょう。あの未曽有の悲劇のどこに光を見出だすことが出来るのか。何を手掛かりに歩むことが出来るのか。聖書は語ります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスに目を据えつつ歩もうではないか」(ヘブライ122私訳)。

私たちには神がわからない。「いったいぜんたい、神の愛はどこにあるのか!」と叫ばざるを得ない。そういう私たちがなお「信じ、愛する」ことができるように、信仰の創始者になられたイエス。そのイエスに目を据えて歩もう、と。

 

「どうか、このしもべへの約束にしたがって、

 あなたの恵みが私の慰めとなりますように」(詩篇11976 新改訳)