わたしもその中にいる  加藤 誠

教会は主イエスの「幸い宣言」(マタイ五章)を生きる群れです。人々が語る「幸い」ではなく、主イエスが語る「幸い」に繰り返し聴く。人々の間でもてはやされる「幸い」ではなく、主イエスが生き抜かれた「幸い」にしっかり根を下ろして歩む。そこに教会は日々建てられていきます。

また教会は主イエスの「十字架のいのち」を分かち合い生きる群れです。弟子たちが最後の晩餐で「これを取って食べよ」と手渡されたパンと杯は、わたしたちの罪により十字架で引き裂かれる「主イエスのいのち」でした(マタイ二十六章)。しかしわたしたちが十字架に見捨て殺してしまった主イエスを、神は復活させます。わたしたちの裏切り、弱さ、愚かさは、神の愛と赦しによって包み込まれ「新しいいのちに生かされる!」。主イエスの「十字架のいのち」は、わたしたちの罪を裁きつつ、新しいいのちに生かす希望のいのちなのです。

この「十字架のいのち」を日々分かち合うところに、教会は建てられていきます。が、具体的にそれはどういうことなのでしょうか。マタイ十八章は「あなたに対して罪を犯した友をどう取り扱うか」という課題を示します。毎日の人間関係で「ゆるせない!」という思いがわたしたちの心にあふれる時、「相手の方が悪いのだから、相手が謝ってきたらゆるしてもいい」というわたしに、主イエスは「あなたの方から行きなさい」と語ります(マタイ18・15、16)。祈ることなしに、また誰かに祈ってもらわなければとてもできないことです。しかし、わたしたちが自分の優しさでは太刀打ちできない課題に祈りをもって向かい合うところに、主イエスの「十字架のいのち」は働くのです。