わたしは復活である   加藤 誠

受難週の主日の夕礼拝で、「エマオ」と題する劇が上演されました。

イエス・キリストが十字架上で処刑され、絶望のうちにエルサレムからエマオに向かっていた二人の弟子が復活のキリストと出会い、心燃やされ心の目が開けられて、再びエルサレムに戻っていくというルカ福音書24章のお話です。

イエスの十字架が、弟子たちにとってどれほど大きな衝撃であったことか。「神の前にも人の前にも行い正しく、言葉も業もすばらしい預言者」であり、「この人こそ、イスラエルの国を救い、不遇な状況を打破してくれる人」と望みをかけてきたイエスが十字架上で悪の極みの罪人として裁かれ、絶望の果てに死んでいった事実が、どれほど深く弟子たちを打ちのめしたか。その衝撃の大きさをあらためて考えさせられると同時に、その彼らが復活のキリストによって心の目を開けられ立ちあがらされてゆく感動が伝わってくる劇でした。

 

イエス・キリストの十字架と復活が指し示す福音とは何でしょうか。

わたしたち人間の信仰や願いというものは一度砕かれないとならない。一度だけならず、何度も何度も砕かれないとならない。「なぜか?」。神の愛と義しさは、わたしたちの信仰や願いをはるかに超えて大きく、深く、高いものだからです。福音は、死んでいる者を生かし、絶望の暗闇に光を生みだし、出口をふさいでいる墓石を砕くからです。それゆえ、不信やエゴが入り混じったわたしたち人間の信仰や願いは、繰り返し砕かれなければならないのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11・25~26)。