わたしの宿題    加藤 誠

今日、K教会でMさんという六十代の方がバプテスマを受けます。Mさんは「性同一性障害」であることを公にしている方ですが、わたしは彼の信仰告白を読んで心が震えました。その要約を紹介します。

「次女として生まれ、小学校入学時に赤いランドセルを買ってもらったが、どこか違和感があった。十歳の時に実母が亡くなり、継母からお手伝いさんのように扱われ、しばしば殴られ外に出された。15歳で家を出された時には心底から継母を恨んだ。いろいろな宗教に誘われて訪ねたけれども、なじめなかった。K教会に初めて出席した時、男でも女でもなく、人として温かく受け入れられた。その礼拝中、不思議にも『よく来たね、待っていました』という声を聞いて心のわだかまりが消えていった。イエス・キリストは十字架でわたしの罪を引き受け、その愛と共に生きる道しるべを示してくださった。だから、わたしが継母を許すとか許さないとかは、どうでも良いことになりつつある。人は誰でも生まれる時に宿題を手に生を受ける。わたしの宿題は、性同一性障害の命を生き、その存在を皆さんに知ってもらい、手をつないでいくこと…」。

「性同一性障害」という言葉は、最近マスコミ等で見かけるようになったものの、まだまだ根深い誤解や偏見の壁に囲まれています。教会でも「神は男と女に創造された。それ以外はありえない」という理解が多いように思いますが、皆さん自身はどう考えますか。聖書をどう読み、イエス・キリストの福音をどう聞きますか。「誰も暗闇にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ12・46)。この箇所にわたしは「人間の抱える闇に閉じ込められてきたMさんの人生に光を照らすために来たイエス」を見ます。Mさんの告白を聖書でどう一緒に受けていくのか。それは「わたしの宿題」です。