ほんとうの安息    加藤 誠

 ユダヤ教徒たちは「安息日」を厳守していました。モーセの十戒で「安息日を覚えて聖とせよ」と命じられている通り、人々は主なる神を礼拝する日として「安息日」を聖別したのです。それは単に仕事を休んで遊ぶ日とは違い、身も心も神に向けて静かに整える日でした。そのため、火を使う炊事は禁じ、歩くのも一日約一キロまで、医療行為もしてはならず、一切の労働を禁じたのです。その徹底ぶりは、前二世紀のマカベア戦争で「安息日」にシリア軍が攻めてきたときに、人々は武器をとらず皆が死を選んだほどでした。

 

 それほどまでに人々が死守してきた「安息日」を、主イエスは軽やかに相対化します。マルコ二章から三章の主イエスの言動をまとめるなら、少し乱暴ですがこうなります。「安息日と人とどちらが大切かって?人に決まっている。安息日に求められているのは善をなすことであり命を救うことだ。安息日に何をしていいかは、この俺が決める!」と。それを聞いたユダヤ教徒の中でも律法遵守運動の中心にいたファリサイ派の人々は、猛然とイエスに憤りと憎悪を向け、早速どのように抹殺しようかと相談を始めたのでした(3・6)。

 

 そもそも十戒でなぜ「安息日を聖とする」ことが命じられているのか。そこには二つ理由があります。一つは天地を創造し完成された神の業を喜ぶため(出エジプト二十章)、もう一つは奴隷や家畜と共に休息を味わうためです(申命記五章)。わたしたちの現実生活がどれほど課題にあふれ忙しく働き回らねばならない状態であっても、神の創造の祝福にあることを覚えて大きな安心を生きるため、感謝と共生と希望の歩みを回復するために「安息日」はあるのです。