ふさわしい「礼服」    加藤 誠

主イエスの「たとえ話」は、聴く者の心を波立たせ、激しく揺さぶる過激なものが少なくありません。というのも、主イエスは、当時の人々が当たり前と考えていた「神理解」を根底からひっくり返し、一人ひとりが改めて考えなおし始めることを意図して、あえて誇張した語りを用いられたからです。

 

マタイ福音書二二章の「婚宴のたとえ」もその一つです。

王子の婚宴に招かれた人々の非礼な態度に憤った王が、「軍隊を送って滅ぼし、その町を焼き払った…」とは、どこかの国の大統領のような過剰報復です。また「礼服を着ていない」というだけの理由で「外の暗闇にほうり出される」のも、あまりにも理不尽な仕打ちです。しかし、そのような厳しい語りで聴く者の心を揺さぶりながら主イエスは、「天の国にふさわしい『礼服』とは何か?」を考えるよう、わたしたちに問いかけておられるのです。

 

当時の一般的な宴会は、生活レベルが同じ者同士の間で、「招いた分の見返りが期待できる人」を「招いては、招き返される形」で行われていたそうです。そのような宴会で着る「礼服」は、その人の社会的地位をあらわし、自らを誇るための服だったことでしょう。それに対して、天の国(神の愛が中心の交わり)の宴会は、「善人」・「悪人」の区別なく、ただ神の憐れみによって招かれた交わりであり、誰も自らの地位や業績を誇る「礼服」を着ることはできません。身にまとうとしたら、それは、「神さま、あふれる恵みをありがとうございます」という感謝と賛美であり、「神さま、あなたの言葉を聴かせてください」という求道と祈りの「礼服」なのではないでしょうか。