だれを捜しているのか   加藤 誠

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(ヨハネ20・10)

 

主イエスの「復活」事件は、親しい弟子たちにとっても理解をはるかに越えるものであったため、彼女ら・彼らが戸惑い、混乱している様子がそのまま福音書に報告されています。例えばマルコ福音書は「婦人たちは…震え上がり、正気を失い…だれにも何も言わなかった」と記し、ルカ福音書は「使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24・11)と記しています。

その中でヨハネ福音書は、主イエスの「復活」を受け入れられず、混乱している弟子たち一人ひとりに、主イエスがさまざまな形でご自身をあらわしている様子を五事例も報告しています。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ…わたしは決して信じない」と言い張る弟子のトマス一人のためだけに、主イエスはご自身をあらわします。また主イエスの遺体がなくなってしまった墓の前で途方にくれて泣いているマグダラのマリア一人のために、主イエスはご自身をあらわし語りかけるのです。それは、従うべき「真の羊飼い」を見失い、散り散りバラバラになってしまった「羊」を一匹一匹捜しだして、もう一度群れに集め直している羊飼いの姿に似ていないでしょうか。

 

今日、「従うべき羊飼い」を見失い混乱している世界の中で、憤り、傷つき、涙している「羊」一匹一匹を、復活した主イエスは尋ね求め、捜し出し、神の愛につなぎとめるために働き続けておられる。

教会は、その復活の主を指し示し続ける働きを託されているのです。