ただ、この自由を    加藤 誠

「イエス・キリストの信仰」とはどういうものでしょうか。

使徒パウロは「キリストの中に沈められ、キリストを着ることだ」と表現しました(ローマ6・3、ガラテヤ3・27など)。浴槽の水にどっぷり浸かるように、キリストの恵みに沈められて、その恵みに包まれて生きることだと。当時の社会には、ユダヤ人とギリシャ人、奴隷と自由人、そして男と女などの間にひどい偏見と差別があり、人びとは一つの食卓を一緒に囲むことができませんでしたが、十字架のキリストが「敵意」という「隔ての壁」を打ち壊し、規則と戒律だらけの「律法」を廃棄されたので、私たちは共に生きる新しい人に創り変えられたのだとパウロは語ったのです(エフェソ2・14~15)。

 

けれども、そのために人々は新たな問題に直面します。「律法」という「~しなさい」「~ねばならない」という命令や禁止が廃棄されたために、「何をしても自由だ」という誤解が人々の間に広がり混乱が生じたのです。

パウロは言います。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5・13)。

神の喜びのために「わたしは何をしたらよいのか」。各自が考え、悩み、選び取っていく、その自由に私たちは召し出された。ただ、その自由が「愛によって互いに仕える」ことになっているかどうか、常に御言葉に聴き、神の前に自らを省み、「これでいいのだろうか」と各自が吟味し続けていく。聴き続け、問い直し続けることを忘れた時、わたしたちの自由は「互いにかみ合い、共食いしあう自由」(ガラテヤ5・15)になってしまうことを心に刻みたいのです。