それは、愛   加藤 誠

「キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(第一コリント15・22)。

 

「完全な祈りとは、十字架のイエスを見つめることだ」とマザー・テレサは語りました。「祈り」というと、わたしたちは神に語るべき言葉を必死に捜すのですが、すべてをお見通しの神の前では、自分が語る言葉はどこか表面的で偽善的に感じられて、ふさわしい言葉がなかなか見つからず往生してしまうことがしばしばです。そのわたしたちに「言葉はいらない。黙って十字架のイエスを見つめなさい」とマザー・テレサは語るのです。黙って見つめていると、逆に十字架のイエスから見つめられて、十字架のイエスの祈り・愛・赦しが静かにわたしの中に注がれていく。そこに「完全な祈り」が成立するのだと。

 

主イエスは十字架の上で、不条理の苦悩と叫びを味わい尽くし、神に徹底して反抗する人間の自己中心の醜さ、歪み、弱さを受け尽くされました。「お前がほんとうに神の子ならば、今すぐ十字架から降りてみろ!」と、人々は十字架上のイエスに唾を吐きかけ、神の子らしい奇跡を何一つ示せず死んでいったイエスを罵倒します。しかし、その十字架の主イエスの姿こそ、罪の悲惨と絶望に沈むわたしたちを救い出し、永遠の命の希望に生かす神の愛の勝利そのものだったのです。復活は、その十字架の神の愛が不信仰な私たちに見える形で示された出来事です。ですから、十字架と復活は表裏一体、切り離すことはできません。復活した主イエスは、十字架の釘跡のある姿で、わたしたちに愛の息吹を注ぎ続ける方なのです。